スタッフ紹介

宮田 秀治

宮田 秀治

出身
柏市
趣味
マラソン・登山・自転車・動物
資格
柔道整復師

開業した動機は何ですか?

開業した動機は何ですか?

私が開業に至ったきっかけは、母でした。

二十歳から医療業界で働きだして16年になりますが、開業前まで母の身体を一回も診た事はありませんでした。

母の右膝をはじめて見た時に、変形性膝関節症による変形がかなり進んでいました。それに伴い背骨のカーブが側弯になっていました。

その時に、心から後悔したことを今でも覚えています。整形外科で治らないと言われてかなり落ち込んだようで、母は毎週楽しみにしていた、バドミントンやジムなどをやめて、自分の楽しい時間を過ごせなくなりました。

それから私の意識は変わりました。母のような身体の問題で悩んでいる人達を

「カイロプラクティックを通して1人でも予防して、希望をもって欲しい!」

「人生の楽しい時間を健康な身体と心で楽しんでもらいたい!」

と強く思うようになり、それが私の理念にもなりました。

そして基礎からカイロプラクティックを学び直して、慣れ親しんだ、地元柏で開業する事を決意しました。

なぜこの仕事を始めたのですか?

はじめは特にこれといった動機はなかったんです。

就職活動の時期に、なかなかやりたい事や、したい事がが定まらず悩んでいたんですが…

父が職人で小学生の頃から、父の職場に溶接を手伝ったりして、遊びに行っていました。

夏休みなどの大きな休みなどに、父の会社で溶接のアルバイトに

行くようになり、その時くらいからから

「将来の仕事は手に職をつけたいな」

と何となく思っていました。

また父が自分で何でも作ってしまう人で、小さい頃からそういった生活環境だったので、何かを作ったり、プラモデルなどに手を加えたりしてカスタマイズする事は好きでした。

高校には、スポーツ推薦で入学したので、毎日部活動に明け暮れていました。

ちなみにレスリング部でした(笑)

格闘技系の部活ということもあって、1年生の頃は、先生や先輩にマッサージをする事が毎日のようにありました。

何故か2年になっても3年になってもマッサージがうまいと言われ、私もそんなにマッサージをするのが、嫌いではなかったので、3年間マッサージをしていた記憶があります。

そんな経験もあってか、短大を卒業後にマッサージ関係の仕事を探していて、就職というより弟子入りという形で、東京の接骨院に勤める事になりました。

そんな感じから、医療業界で働く事になりました。

その後どのような流れでカイロプラクティックと出会ったんですか?

カイロプラクティックを知ったのは、最初に勤めた接骨院で知りました。

院長がカイロプラクティックを取り入れていて、また接骨院の裏に、院長の友達のカイロプラクティック院があったので、その時初めてカイロプラクティックの存在を知りました。

最初は、まずトイレ掃除から教えられて…

徐々に物理療法(干渉波は低周波などの電療法・超音波やレーザー療法)や

手技療法(マッサージ・ストレッチ・筋膜治療)などを学びながら

柔道整復師の国家資格を得るために、働きながら学校に行き7年働きました。

無事に試験にも合格して、その頃にはある程度仕事も覚え、患者様の症状にも対応できるようになっていました。

その時は、接骨院を開業していこうと思っていました。

カイロプラクティック転向のきっかけは何ですか?

その後、地元の柏に戻ってきて北柏で就職しました。

幸運にも、院長として整骨院を立ち上げから任される事になりました。

今まで、やってきた経験もあってか、徐々に患者様もついてきて一年で軌道に乗ってきて、仕事も楽しくなってきていました。

しかし、筋肉メインでの治療では、また症状が戻ってしまう事が多く、重症患者さんの改善はある程度まではいくものの納得いく改善までいかないという壁で何年か悩んでいました。

やはり、筋肉でのアプローチやストレッチでは対処療法なので

根本からの改善にならないなって実感しました。

その時に、根本の骨格からのアプローチの方が結果が出るんじゃないか?

と、思うようになり、前の職場で院長のカイロプラクティックを思い出しながら、独学で勉強していくことになるのですが、限界を感じました。

そんなタイミングで、新しい女性スタッフMさんが入ってきました。

その女性スタッフMさんがカイロプラクティックの学校を出ていて、とても熱心な先生で、色々とカイロプラクティックについて知る事ができました。

その時に、その女性スタッフMさんが卒業していた学校が

「塩川スクールオブカイロプラクティック」

で、初めてカイロプラクティックの専門学校がある事を知ります。

後に私も入学しカイロプラクティックにどっぷりはまっていくことになります。

その後、どういった経緯で入学したんですか?

その後、女性スタッフMさんが退職して、新しい男性スタッフのN先生が入ってくる事になります。

このN先生も「塩川スクールオブカイロプラクティック」の卒業生でした。

ちなみに社長も卒業生でした(笑)

そのN先生が入ってくる時に、整骨院にもカイロプラクティックの専門の道具が搬入され、本格的にカイロプラクティックをやれる環境になっていきました。

私はその時はカイロプラクティックではなく、保険内での診療や、実費で整体や骨格矯正などを行っていました。

そのN先生は、カイロプラクティックでのケアで重症患者さんなども含めて結果を出していくのを目の当たりにしました。

しかし、私はまだその時はカイロプラクティックの治療は見ているだけで、日々の仕事に追われていました。

ある時、その先生の師匠的な人が、整骨院に来た時に、カイロプラクティックの話を詳しく聞くことが、またトムソンテーブルテクニックと言われるカイロプラクティックテクニックの1つを教えてもらえることになりました。

その先生は、今でも私の師匠でありメンターの一人でもあります。

カイロプラクティックを徐々に学んでいく過程で私が感じた事は、「カイロプラクティックって、理論的で芯のあるものなんだな」

と強く感じたのを今でも覚えています。

その後、そのN先生が退職する事になり、私がカイロプラクティックの業務を引き継ぐことになりました。

私は結構昔から手先は器用な方で、見よう見まねである程度できてしまったりすることが多かったので、その時も大丈夫だろうと思っていました。

しかし実際には、そんなに甘いものではなくて、その時に患者様に迷惑かかると思いました。

またカイロプラクティックの奥深さに触れ、これは見様見真似ではとてもじゃないが習得できるものではないと思いました。

そこから「塩川スクールオブカイロプラクティック」に入って一から勉強する事を決めました。

またその時に師匠から言われた

「学校に入って一番いいことは仲間ができる事だよ」

と、言われたことが一番心に残っています。

「塩川スクールオブカイロプラクティック」ではどういった時間を過ごしたんですか?

「塩川スクールオブカイロプラクティック」ではどういった時間を過ごしたんですか?

「塩川スクールオブカイロプラクティック」には早期入学という制度があったので、私は通常より3ヶ月早く入学し勉強する事にしました。

正直、勉強があまり好きではなく

国家資格の「柔道整復師免許」を取る時に専門学校に通った3年間もつらく厳しいものでした。

しかし、カイロプラクティックの勉強は楽しく、勉強嫌いの私が自分でも信じられない位勉強しました。

「知らない事は知りたい!」

「できない事はできるようになりたい!」

新しい事を、どんどん吸収していく事が本当に楽しく充実した日々でした。

何より今まで治療において

悩んでいた事や、行き詰っていた事、壁を越えられなかった事が、紐解かれていき、今までやってきて求めていたものの答えが見つかった感じがして本当に充実した毎日でした。

朝から仕事に行き、夕方から学校で、柏から新橋へ行き、帰りは毎日0時過ぎに帰宅、休みの日はセミナーと肉体的にはきつく、体調を壊すこともありました。

しかし勉強すればするほど、カイロプラクティックの奥深さに魅了されていきました。

なにより私が一番良かったと思うことは

「仲間や先生に恵まれた」

という事です。

そのおかげで、本当に充実した楽しい時間を過ごす事ができました。

カイロプラクティックのテクニックも今まで自分がやってきた、筋肉へのアプローチなどより、はるかに難しかったですが、それがまた苦しくも悩みましたが、できた時の嬉しさがそれを上回りました。

自分でも仕事がこんなに楽しく充実したものになるとは思っていませんでした。

また私は、このカイロプラクティックという仕事を一生していこうと決めました。

当初、整骨院で独立開業を考えていましたが、カイロプラクティック一本で開業独立する事を決意しました。

正直、整骨院での煩わしい保険業務や対処療法での施術はしたくない、カイロプラクティック一本に集中したいという、強い想いでした。

その後、無事に卒業する事ができ、今までの人生の中で一番充実したんじゃないかと思えるくらいの、2年3カ月の時間を過ごす事ができました。

仲間と先生方、またその機会をくれた師匠や、職場の社長やスタッフには本当に感謝しています。

卒業から開業までの経緯を教えて下さい

卒業から開業までの経緯を教えて下さい

卒業後、半年間は整骨院で勤めました。

その後、私の生まれ育った「柏」でカイロプラクティックを通して、地域に貢献したい、またカイロプラクティックを広げていきたいという想いが高まり

父の誕生日である、12月8日にプレゼントの意味合いも込めて、開業する運びとなりました。